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2020年03月13日(金)更新

花博

東京から帰ったら父の仕事をすぐ
手伝うつもりでいましたが、
当時父は50歳代、油が乗り切って元気そのもの。

毎日ぶつかりました。
たまたま「花と緑の博覧会」の
ゴミ収集が組合受注でありそこで働くことにしました。

花博の勤務は1日も休まず、遊びにもいかず、
おかげで東京での借金は完済でき、
もう一度やり直す機会ができました。
また同業者の役員さんの鞄持ちをすることで
ゴミ屋さんの考え方を知ることもできました。

そしてその花博の仕事中にある光景を目にしました。
私の継いだ原点にもなっています。
あるエリートの方がゴミの収集業務をしている
父を蔑んだ目線で偉そうに命令していました。

「おっちゃん何してんねん これもとっとけ」

心の底から腹が立ちました。
「よしそれなら舐められないように自分がエリートになる」

その後、エリートがゴミ屋の社長になり
「働く人に誇りをもてる」と
思えるような会社作りをしたいと思いました。

そしてヨーロッパやアフリカなど一人旅をした後、
外資系の銀行に声をかけてもらいました。
英語もできず銀行業務もできない私でした。
しかも上司も先輩もお客様もエリート。
今まで中小企業で育っていた私の環境とは180度違う環境でした。
あまりのストレスのためヘルペスであわゆく失明になりかけましたが

派遣社員だった私は正社員にさせて頂き、
当初の目標「エリートになる」を
果たし6年勤める事ができました。

 

2020年03月06日(金)更新

社会人 東京

社会人スタート

大学を卒業して
まずは「世の中を知る」と言う目的で
商品先物取引の会社に就職しました。

初めて自分が選んだ選択でしたが商品先物取引業は
その時あった事件と同じ業種で、
東京に行きたいと言う不純な動機で
両親は反対でしたが就職は自分の思った通り進みました。

その仕事では営業成果を出して
新卒1年目で2階級昇進も果たしました。

ただ人を騙して営業を行う会社でした。
そうなると営業をするのが嫌になり結局1年で
借金を作って大阪に帰ってきました。

その時の体験から学んだ事は

「仕事は世のため人のためになる事をしないと
心が荒み、運が悪くなる」

「悪いことは自分には向いてない」

「誠実に正しく自分に嘘をつかず正直にきれいな心で生きよう」

と決めました。

これからの社会人生活での
大原則にしていこうと自分の心の中で誓いました。

2020年02月29日(土)更新

生い立ち2

父の入院中は従業員2人が海水浴につれて下さり、
運動会にも来て頂き、
その後父は退院すると家の下で事務所を構え、
業務終了後2人の従業員と談笑しながら将棋、

家庭=仕事場の家族会社のスタートとなりました。
また妹も誕生し、家族も新たなスタートとなりました。

小学校に進むとなぜかすべての学年で学級委員長など
推薦され受けることになりました。
学校の通信簿には「茂君と遊ぶと悪い子たちもおとなしくなる」
と書かれていたほど私自身は優等生なのですが、
なぜかやんちゃな子と仲良くしていました。

今思えば現場作業員と調和をするには
すごく役立っている資質だと思っています。

一つ嫌だったことは、自分の父の仕事を作文に書くことでした。
「ゴミ屋」であることを友達には隠して、
運送屋であるとか掃除屋さんと書いていました。

高学年になると友達もわかってきて
「お前の家ゴミ屋やろ」と「ゴミ屋の息子」
と言うレッテルを貼られました。

家では小学校の頃から、父親から
「商売はええで ゴミ屋はええで」と何度も毎晩聞かされ、

集金のお金を私の目の前で数え、ことあるごとに
「一生懸命働かなあかん」と毎日食卓で言っておりました。

そのため当時、従業員も2人ですが「将来は30歳でゴミ屋の社長になる」
と志を立てて土曜日の夜はビルメンテナンスで床やトイレの掃除、夏休み、
年末はトラックの助手をして現場を手伝っていました。


2020年02月28日(金)更新

生い立ち

去年解散された盛和塾で発表させて頂きました原稿です
自分の生い立ちと弊社の歴史がリンクでき
いい体験になりました

折角の原稿なのでここでできるだけシェアさせて頂きます


昭和46年7月10日に創業65年の弊社の歴史上、最大の事件が起こりました。

私はまだ4歳で幼稚園の夏でした。

私が幼稚園に入園前「隣のお兄ちゃんと同じ幼稚園に行きたい」
と言い出した事がきっかけ、
その幼稚園がサラリーマンでの父の給料では学費が払えず・・

そのためすでに他界した創業者の祖父が他人に名義貸ししていた
一般廃棄物収集運搬業の城東衛生、
父が継ぎたくなかった「ゴミ屋」を始めることになりました。

当時お得意先も少なく、父1人で事業を行っておりました。
その父が運転していたトラックが坂道で急にブレーキがきかなくなり
信号待ちをしていたトラックに激突をしてしまいました。

幸い一命は取りとめられたものの救急病院で気を失い
左足は骨だけ残っている状態でした。


 

20代の母は4歳の息子の私と取り残された状態で「明日からどうするか?」
を決めないといけない状況になりました。ゴミ回収は休みなし。
待った無しの決断を母は迫られていました。

その時、アルバイトに来ていたお得意様の工場長の息子さんに相談したところ、
「よしわかった」とその日に会社を辞めて、弊社に来る決断をして頂きました。

また同時に20歳の父の甥もその日に一緒に入社していただくことになり、
事故したトラックを引き上げ次の日から同業他社に車を借りて事業が継続されました。
その後父は気をとり戻しましたが結局足をつなぐため一年間入院することになり、
その間お二人で収集作業、集金、新規客開拓までやって頂きました。

その時以来、事あるごとに母は私に従業員に対し「感謝しいや」といいつづけ、
この事が私の今の経営者人生としての考え方の土台となっております。


2020年02月13日(木)更新

野村克也氏を偲んで

名伯楽といわれる野村克也氏がご逝去されました。
今思い出すと高校の卒業式か入学式に
ご講演して頂いた事を思い出しましたのですが
それくらい
今まであまり興味がなく知りませんでした。

ただ
スポーツ新聞の紙面上のみなさんの野村氏 に対してのコメントが
すごく温かく凄い方だったんだと改めて思いました。

「勝ちに不思議な勝ちあり負けに不思議な負けはない」

など

名語録がありますが

僕は
「金を残すは下、業を残すは中、人を残すは上」

が好きでまさに野村氏は実践された方なんだと思います。

という事で新聞を読んで
「やっぱり人を残すのが自分の使命」

今までちょっとサボり気味だったのを反省して
部下をしっかり彼らのために指導しようと決意。

そして矢先

全社員の日報をチェックしていたら

1月29日以降日報を書いていない社員を発見・・・

弊社の社員は優秀なので
僕が決意した瞬間にすぐ失敗をやってくれます。

こちらが試されます。

手抜きとは
「人の生活を奪うこと」と経営の師匠が言ってたのを思い出し
それを伝えて

「始末書!」

ただ自分も何か野村氏みたいに
いい言葉がすぐ出せるようになりたいなぁと
思いました。

やっぱり生き方ですね

 
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