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2020年04月14日(火)更新

ジェイポートでの大事件

新しい社員たちの奮闘で現場の雰囲気は明るくなりました。
が、ある日その社員のスケジュールボードに

「馬鹿野郎」

最初、誰が書いたのかわからなかったのですが、
よくよく聞くと番頭さんでした。

最初は
「仕事をなめるな!」
新人に怒ってましたが・・

そこで不満が爆発しすぎて矛先が妹に・・

「樋下家ばっかりいい思いしやがって」

と普段温厚で優しい彼からそのような言葉を
吐かれたとは信じられませんでした。

妹が涙ながらに

「そんなことはない。借金だらけや」

と必死で訴えましたが
従業員は私や父には本音を言わないと
いうことがよくわかりました。

この席には私も父もいませんでした。

そして現場社員からは

「営業は遊びだ」

と言う言葉も発せられ、

私が10年現場を離れて
営業している事は

「いつも遊んでいる」

という認識を
従業員にされていたがよくわかりました。

しかし
やっと彼らから本音が聞くことでき、
風通しのいい安全な会社になってきたと
嬉しくなったりもしました。

当時の私の夢は「株式上場」でした。
動機は「かっこいい」ということだけでした。

そしてこのような事件があり
自分の限界を知りました。

その後、友人の弟の社員と
(この社員は工場で寝泊まりもしていましたので)
いつも業務終了後、全社員が帰ると
「どうしたらこの会社もっとよくなるだろう」
と夜な夜な話をしてました。

その時にたまたま夏で窓を開けていると
隣の会社から盆踊りの音楽と笑い声が聞こえ、
その社員と家族が一緒に盆踊りしていたのを見ました。
本当にうらやましく思いました。

「社内で盆踊りをする あれが夢やな」

なんて話をしました。

ただ
「まぁ死ぬまでにできたらいいけど」

とも思っていました。

 

2020年04月13日(月)更新

40にして惑わず

40歳になりまず父任せの採用から
自分も入るようと頼み採用を始めました。

明るい会社にしたい。
そのため明るい人材を採用しました。
が、
残念ながらすぐに既存社員に
いじめられてしまいました。

1人ではダメだと
底抜けに明るい友人の弟を採用しました。

ただ彼は余りにも正直すぎる人格で面接のとき父に
「なぜ弊社に?」
と聞かれて
「私は人と共に生きる会社にしたいです」
と言い、

父から
「まぁ理想もいいけどがんばりなはれ」
と言われ従業員からは
「息子のスパイ」
と3カ月間無視されました。

彼は今までの人生で初めて
自分の明るさが通じなかった。

と後日言ってましたが・・

私は
「彼を守ると既存従業員が敵になる」
と思い中立を貫きました。

すると3ヶ月ほどすると
少しずつ硬いコンクリートの岩盤が破れてきました。

妹も会社にいましたが当時は
お手伝い程度の存在だったかもしれませんでした。
その妹が友人の弟が自分の会社のために
そこまでやっているのを見て目覚めるようになってきました。

当時の現場従業員はお客様と喧嘩をする、
お客様に「お前」「帰れ」「一周回ってこい」

また月給は歩合給でしたので
売り上げが悪い支給日翌日は
挨拶する私を無視・・
ひどい時は睨んでおりました。

そんな社風でした。

当時現場は8名の会社でしたので
「今の人数の倍になれば社風が変わるかも」
と思って営業に力をいれました。

なので、まず採用時に
「お客様の対応」
をしっかりするようお願いしました。

そしてその新人達はベテラン社員たちの空気を
読まずに行動しだしました。

そうすると心ある中堅社員が変わり出しました。
彼は焚火でいうと丸太のような人材で火が付くのは遅いですが、
一旦火するが付くと消えることなく
今も現場長としてやってくれています。

しかし新しいことを進めていくと大きな歪みがまた来ました。
父の事故からずっと働いていただいている
40年勤務の番頭の不満が大爆発しました。

 

2020年04月10日(金)更新

嫌われる勇気

37歳のある日青年会議所の友人に
あるセミナーを紹介してもらいました。
怪しそうなのでしたが
自分の信頼する人の誘いなので通いました。
アドラー心理学をベースにしたセミナーでしたが、
そこで大変な気づきがありました。

それは自分の人生ずっと「被害者」でいたことでした。


「あの人悪い人 私可哀そういな人」

というのが依存的な人のくちぐせ。
ずっと被害者になって父を悪者にしていた他責の自分。

「全て自分が決めてきた」と気づき、
その事で劇的に自分の人生が変わりました。

アドラー心理学の基本は「私はできる」という自己受容と
「周りは仲間」という共同体感覚です。
自分は本当に従業員のことを仲間だとも
思っていないことにも気づかされました。

孤独を感じて独りよがりで罰ゲームと思っていただけの利己的人間でした。
まずは「罰ゲーム」と言うことをやめ新しく生きることを決めました。

そして新たな目標ができました。
アドラー心理学を経営で使う。
アドラー心理学は凄い理論で受講者は医者やセレブ主婦といった方多く
理想的ですが実践的ではありませんでした。

それなら
「自分が社会で実践してみる」
というのが経営者になる目的にもなりました。

今でこそベストセラー書「嫌われる勇気」で
一躍有名になった心理学ですが当時はマイナーでした。
私が心理学を学んでいる自体、
妹はじめ従業員からは大丈夫かと気持ち悪がられたりしました。

しかし「自分はできる」「周りは仲間」という心理目的と
「個人の自立」「社会との調和」という行動目的は
これからの社会で必ずスタンダードになると信じて実践を始めました。

そして妻も一緒に勉強して夫婦で同じ価値観で
生きることのスタートにもなりました。

その頃から毎日曜日は田舎の方へドライブをしながら
妻に会社の話を聞いてもらっていて

今でも続いていて私の一番の勇気づけになっています。

2020年04月02日(木)更新

ジェイポート設立

入社して半年後、工場が完成、
同時に新会社で産業廃棄物を処理する会社、
株式会社ジェイ・ポートの運営を始めました。

ちなみに
J-PORTは私が名付けました。

「J」は喜び(JOY)のJ
と同時に
『城東のJ』から『JAPANのJ』へ
(いっちょまえに野心は強いので・・)

「PORT」は運ぶとか港とかいう意味

喜びを運ぶ
とか
喜びの港

という意味です

創業して一年後
父が脳梗塞になり私が社長に就任。

幸い後遺症もなく2ヶ月で復帰したので会長の父が実質の権限者のまま。
父はお客様の前で「社長やらしてまんねん」と私を紹介、
私も「社長やらされてまんねん」と応酬。

今思えば大人気ない反応でした。

父は私が入った事で肩の荷が降り
「65歳で死ぬ」と言っていたはずでしたが
みるみる元気になっていきました。

が、その分、関係性はもっと悪くなりました。
父は競馬で言うとラストスパート、
私はスタートし始めたばかり。

父は私が入ることで今まで渋られていた
借入金が出来るようになり
工場建設やトラック購入など
新たな投資をどんどんしていきました。

返済しても返済しても
借入金は増えていくばかり。。

父曰く
「茂のためにここまでやっといたらなあかん」

と言う父流の愛情でした。

しかし私は
「私の借金で好きなようなことしやがって」
と思っていました。

会話も少なくなりました。
が、たまに
「茂おるか?」

私が父から呼ばれる時は
銀行の保証人にハンコを押すときのみでした。

また協力会社や銀行の担当者が
打ち合わせに来られても
「会長いますか?」
と、社長の私は素通り・・

知らない間に 新工場の話が進んでおり
決まってから
「こんなんどうや」と・・

「もう無理やで」
というと

「・・・」
父はしょぼんとして
「ぼくも建てるのは最後やし」と・・

かわいそうになってきて
「 わかった ええで」
になってしまいました。

が、自分自身
どんどん勇気がくじかれていきました。

2020年03月31日(火)更新

城東衛生入社

帰国したその日、
父から「僕は65歳で死ぬ。いつから来るねん」

自分は充分好きなことをやったと観念し、
また親孝行をしたい、
そして何より今までこの会社を支えてくれていた
従業員への恩返しのために(有)城東衛生に入社しました。

入社時、売上1億5千万
対してキャッシュはゼロに近く
借入金3億円でスタート。

「30歳で3億円かぁ」と思いながら、
これも今まで好きなことをして生きてきた
「罰ゲーム」と思い飲み込みました。

また入社当時、従業員は6名でしたが全員年上、先輩。ほとんどパンチパーマ。
コミュニケーション下手の従業員同士は一言もしゃべらない日が多く、
ただプロ集団で抜群に働きはすごく
休みは日曜だけで朝6時から夜8時まで
また骨折しても休むことなく働いていただいておりました。

今でいうと超ブラック企業。

「すべてはお金のため」
そのポリシーの諸先輩従業員の人達に認めてもらうには、
その人たちの3倍働かないといけないと思い
休みなしと言う覚悟で働きました。

1番きつい現場には率先的に行き、
営業もみんなが回れない位受注してくる。
そのうちに従業員からは認められるようになりました。
ただ自分の心はずっと死んでいました。

休みの日曜日はフィットネスのプールサイドで
張りつめた心をリセットしておりました。

妻も気を遣ってくれて何もいいませんでしたが、
寂しさで体調を崩し始めました。



 

2020年03月27日(金)更新

社会人 オーストラリア編

外資系の銀行で仕事をしたおかげで自信ができました。
そして30歳になり、
しかしゴミ屋に入るのをためらっていました。

そうすると大学時代のバイト先のオーナーが
オーストラリアでレストランとホテルを持っていて

「マネージメントで困っているのであんた奥さんと行ってくれへん」

と誘って下さり、新婚当時でしたが一緒に行かせてもらいました。

15部屋のホテルとレストランの小さな施設なので
すぐに立て直せるだろうとたがをくくって行きました。

またオーナーからの指令で
「今のマネージャーの出来が悪いから首を切ってきて」
とも言われました。

言われた時は「それくらい簡単にできる」
と思っていました。

しかしこれが傲慢であったと後に思い知らされました。

オーストラリアに到着した直後に
肉屋、リネン屋など借金取りが毎日来る始末。

英語で何を言っているかわからず、
また電気、電話も急に止められる。

従業員同士もトラブルがあり警察沙汰にもなりました。

お隣とは境界塀の修理代を払っていないとか
で裁判もかけられていました。

本当に最初の1ヶ月で10年位の月日を感じました。
そして何より一緒に行っていた家内とは
お金がないと言うことで毎日ケンカ。
本当に地獄でした。

 

しかし今思えば本当に良い経験でした。

会社の潰れる時とはこういうことだと体験できました。

自分の失敗の反省と気づきは「謙虚にして驕らず」。

やっぱり傲慢な人間は上手く行かないと言うことが身を持って体験させて頂きました。

その頃日本の弊社では父が新たな土地を購入致しました。

突然オーストラリアの私の職場に取引銀行の支店長から国際電話があり

「お父さん土地を購入されます。保証人お願いします」

と思わず

「はい」

と答えてしまいました。

オーストラリアでは少し業績はよくなりましたが、
週払いで資金繰りは厳しく個人のお金を建て替える事に

妻が耐えられない事と日本で父が土地を購入して

新しい事業を始めるという事で帰国いたしました。

2020年03月26日(木)更新

モロッコ ひとり旅


私の大冒険は湾岸戦争の最中
23歳の時、ヨーロッパへ一人旅で一か月
行った事です。

ヨーロッパ一人旅はよくある話ですが、
その旅行中で急にアフリカのモロッコのマラケッシュへ行きたくなり
ガイドブックを持たず、思いつきでスペインから
モロッコへの船に乗った事が始まりでした。

スペインから乗った船では白人ばかりだったのが
船からおりた瞬間アラブ人だらけ・・
音楽も蛇使いの音楽で、匂いも独特。

ガイドブックを持ってないので
何が何かわからず、いきなりガイドという
白人男性に出会ったのが不幸の始まりでした。

アラブ人は初めて見たの不安が一杯の所に
白人という事でつい安心してしまい・・・

そのガイドに現地人の危険なところを連れまわされ、
挙句のはてに、ジュータン屋へ行って10万円の
ペルシャじゅーたんを購入させられて・・
ギター5万円も・・
(買わないと殺される予感があったので・・)

紹介してもらったホテルは不衛生で水しか出なく
夕食もガイドの言うがまま現地料理を食し
(美味しかったですが)

ホテルに帰ると
人生で最初で最後の初めて体の芯から震えました。

またガイドに
「マラケッシュにいきたい」というと
「電車はストライキだから無理」と言われ

一泊して早朝隙を見つけ逃げました。
(ホテル代は普通でしたが)

すぐ船でスペインへ帰ればいいものを
電車が動いているのを見つけ
そこで電車に乗って内地のマラケッシュへ旅立ちました。

今度は電車に乗っていると
新聞を読んで湾岸戦争の話をしていた
モロッコ軍のアーミー達が僕を見て

「何故日本はアメリカへお金をだすのだ!」

と詰め寄ってきました。
(アラビア語で何を言っているのかわかりませんが)

その日は日本が何十億ドルというお金を
アメリカに援助した日で
新聞にでかでかと書いているようでした。

僕が見るにモロッコ軍の人達は当時日本では
大悪党といわれていた
「サダムフセイン」
を尊敬していました。

文化の違いや日本から見る報道とギャップの大きさに出会いました。

そこで助けてくれる軍人が・・

その人と仲良くなり、
その人の家はマラケッシュとの事で
家に泊めていただくことになりました。
(ゲイやったらどうしょうと思いながら・・・)

モロッコ人の家に泊まるチャンスはめったにないと
思ってチャレンジしました。

その家に一週間宿泊させて頂き、
本当におもてなしをしてくださりました。
(無事でした)

民家で決して大きな家ではないのですが、
クスクスやミントティなど現地の家庭食や文化を堪能でき、
また観光もご一緒してくださり
楽しい時間を過ごすことができました。

ドリーファンクジュニアに似ていた
モロッコ人に本当に感謝です。

しかし今度はスペインへ帰るフェリーで
別の白人の酔っ払いに絡まれ、
また体の芯から怖くなりました。

本当に思い出しただけども怖い顔です。
最初はいい人だったのですが・・・

やっとフェリー船でスペインに着き、
酔っ払いから逃げるように
バスに乗りバルセロナまで
早朝とうちゃく
ほっと一息、
今度は、二人組の男に
鞄をひったられました。

コンタクトレンズが入ってる鞄なので大変困るし、
なんかもう疲れて
訳がわからなくなっていて、
怖いものがなくなり
そのひったくりの一人に体当たりし,
レスリングもしていたので思い切り投げ飛ばしました。

ひったくり二人組は私にあやまり
鞄を離し逃げていきました。

その後はフランスで1人スキーをやったり楽しく過ごせましたが、、

たった一ヶ月の冒険でしたが、
この事で人生怖いものがなくったように思えます。

まずは言葉が通じない、常識や文化が違うのが一番怖いです。


自分で読んで感じた事は

この旅行時は23歳
そして倍以上の年月がたって今53歳

ちょっと固まっている?
このままで人生いいのかな?

改めて「失敗が自信の糧」だと思い
また少しだけ
新たな冒険をしたいような気持ちになりました。

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2020年03月13日(金)更新

花博

東京から帰ったら父の仕事をすぐ
手伝うつもりでいましたが、
当時父は50歳代、油が乗り切って元気そのもの。

毎日ぶつかりました。
たまたま「花と緑の博覧会」の
ゴミ収集が組合受注でありそこで働くことにしました。

花博の勤務は1日も休まず、遊びにもいかず、
おかげで東京での借金は完済でき、
もう一度やり直す機会ができました。
また同業者の役員さんの鞄持ちをすることで
ゴミ屋さんの考え方を知ることもできました。

そしてその花博の仕事中にある光景を目にしました。
私の継いだ原点にもなっています。
あるエリートの方がゴミの収集業務をしている
父を蔑んだ目線で偉そうに命令していました。

「おっちゃん何してんねん これもとっとけ」

心の底から腹が立ちました。
「よしそれなら舐められないように自分がエリートになる」

その後、エリートがゴミ屋の社長になり
「働く人に誇りをもてる」と
思えるような会社作りをしたいと思いました。

そしてヨーロッパやアフリカなど一人旅をした後、
外資系の銀行に声をかけてもらいました。
英語もできず銀行業務もできない私でした。
しかも上司も先輩もお客様もエリート。
今まで中小企業で育っていた私の環境とは180度違う環境でした。
あまりのストレスのためヘルペスであわゆく失明になりかけましたが

派遣社員だった私は正社員にさせて頂き、
当初の目標「エリートになる」を
果たし6年勤める事ができました。

 

2020年03月06日(金)更新

社会人 東京

社会人スタート

大学を卒業して
まずは「世の中を知る」と言う目的で
商品先物取引の会社に就職しました。

初めて自分が選んだ選択でしたが商品先物取引業は
その時あった事件と同じ業種で、
東京に行きたいと言う不純な動機で
両親は反対でしたが就職は自分の思った通り進みました。

その仕事では営業成果を出して
新卒1年目で2階級昇進も果たしました。

ただ人を騙して営業を行う会社でした。
そうなると営業をするのが嫌になり結局1年で
借金を作って大阪に帰ってきました。

その時の体験から学んだ事は

「仕事は世のため人のためになる事をしないと
心が荒み、運が悪くなる」

「悪いことは自分には向いてない」

「誠実に正しく自分に嘘をつかず正直にきれいな心で生きよう」

と決めました。

これからの社会人生活での
大原則にしていこうと自分の心の中で誓いました。

2020年02月29日(土)更新

生い立ち2

父の入院中は従業員2人が海水浴につれて下さり、
運動会にも来て頂き、
その後父は退院すると家の下で事務所を構え、
業務終了後2人の従業員と談笑しながら将棋、

家庭=仕事場の家族会社のスタートとなりました。
また妹も誕生し、家族も新たなスタートとなりました。

小学校に進むとなぜかすべての学年で学級委員長など
推薦され受けることになりました。
学校の通信簿には「茂君と遊ぶと悪い子たちもおとなしくなる」
と書かれていたほど私自身は優等生なのですが、
なぜかやんちゃな子と仲良くしていました。

今思えば現場作業員と調和をするには
すごく役立っている資質だと思っています。

一つ嫌だったことは、自分の父の仕事を作文に書くことでした。
「ゴミ屋」であることを友達には隠して、
運送屋であるとか掃除屋さんと書いていました。

高学年になると友達もわかってきて
「お前の家ゴミ屋やろ」と「ゴミ屋の息子」
と言うレッテルを貼られました。

家では小学校の頃から、父親から
「商売はええで ゴミ屋はええで」と何度も毎晩聞かされ、

集金のお金を私の目の前で数え、ことあるごとに
「一生懸命働かなあかん」と毎日食卓で言っておりました。

そのため当時、従業員も2人ですが「将来は30歳でゴミ屋の社長になる」
と志を立てて土曜日の夜はビルメンテナンスで床やトイレの掃除、夏休み、
年末はトラックの助手をして現場を手伝っていました。


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会社概要

昭和29年創業 平成7年法人化

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個人プロフィール

趣味 旅行、サックス、ダイビング

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