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2020年04月24日(金)更新

経営理念の作り方

論語に
さいう。三年さんねんは、すでひさし。くん三年さんねんれいさざれば、れいかならやぶれん。三年さんねんがくさざれば、がくかならくずれん。旧穀きゅうこくすできて、新穀しんこくすでみのる。すいりてあらたむ。にしてむべし。いわく、いねくらい、にしきる、なんじおいやすきか。いわく、やすし。なんじやすくばすなわこれせ。くんるや、うまきをくらえどもあまからず、がくけどもたのしからず、居処きょしょやすからず。ゆえさざるなり。いまなんじやすくばすなわこれせ。さいず。いわく、じんなるや。うまれて三年さんねんしかのち父母ふぼふところよりまぬがる。三年さんねんは、てん通喪つうそうなり。父母ふぼ三年さんねんあいらんか。
「喪中三年は何もするな」
とありますが

十年前に父が逝去した際
一年改革は自粛しました。

ただ喪中も社内改革のことばかり
考えていました。

ただ
急に改革をすると
いままで頑張って父を支えてくださった
先輩従業員に申し訳がたたず

このお客様対応とサービスでは
会社が沈没する

迷っていましたが

その指針になったのは
経営理念でした。

父が亡くなる前に

『父が何を大切に経営してきたか?』

を聞けたことは本当に良かったことでした。

当時私が社長になってすぐ
経営理念を作ろうと父と話をした時、

「何を大切にして経営をしてきた?」

ダイレクトに聞くと、

「あれがあかん」「これはどうなってんねん」

という今の課題の話を・・

なかなか前にすすまず永延4時間。

でも諦めずに
何回も何回も聞いているうちに

「そうやな 信頼かな」

と答えてくれました。

「えっ 信頼とは?信頼されること?」
と聞くと、

「こちらから信頼をすることや」

やっとここで現在の
弊社の一番大切な

「信頼をつなぐ」

という言葉に出会いました。

ですので
先輩社員さんには
どんなことがあっても

「こちらから信頼をする」

というスタンスを変えずいようと思いました。

ただ
若手社員の教育は
時代に合わせていきたいので
「勇気づけ」をして
主体的な社員の育成。

社員の話は必ず最後まで聞くようにし、
また彼らが自主的に決めたことには
会社の命に支障がないのであれば
結末まで見届け自信をつけてもらう。

責任は私です。

そして次の社内改革は
「改善提案書」
を始めました。

今では週30通くらい改善案が来ますが

当時は
「トイレにペーパーがない」
など主体性とは離れた
依存的人の会社への不満が多く
こちらのマインドが参ってしまいました。

そして社員総会を行い社員表彰も始めました。

全社員が投票する社員MVP。

社員表彰はそれなりに盛り上がっていき

社員旅行も復活しました。

30年以上前にはあったのですが・・
当時の従業員が酔っぱらって社長の父に
「いいかっこするな」
お膳をひっくり返し・・

そこから中止。

それ以来カードをレストランに預け各家族で食事をする
というのが弊社の忘年会になっていました。

本当に復活できるかと
当初は少数の参加でしたが
今年は全社員がバスに乗って
温泉に行くようになりました。

2020年04月17日(金)更新

父との別れ

改革をすればするほど
病気の父との距離は開いていきました。

最終的に父との戦いは亡くなる前日まで続きました。
父には会社が励みでした。
腎臓透析が終われば現場に来て陣頭指揮。

私が朝に指示して変える、夕方帰るとまた元通り。
聞くと「会長が」と。機械が増えていく。

「もうお金ないで」
と妹が父に伝えると

「なんでそんなに借りるねん」
と言う始末。

父には長生きしてもらいたい。

会社には来てもらいたいのですが、
会社内はめちゃくちゃ混乱し従業員も大変でした。
しかし従業員は父を尊敬し愛していたので私は何も言えず
逆にコンプレックスだけ刺激されました。

自分自身賞味期限が切れないようにと
音楽の趣味をつくりました。

すると父は母に
「茂はいつもおらん。仕事せいへん」
と言って母との関係も悪くなりました。

親戚にも呼び出され
「何をやっているかわからん」
と言われました。

しかしその中で妹は私の理解者になってくれるようになりました。

またこの理不尽な事を全世界へ言ってやろう
このブログを書き出し始めたりしました。

それが業界では新たな取り組みと注目されるようになり、
業界のマスコミやコンサル会社から
セミナー講師の依頼をされることもありました。

その時の受講者のフィードバックも

「勇気ですね」
と言われ凄く嬉しく思いました。

父との最後は会議のなかった会社が幹部社員4名で
業務時間内に会議を行っていた際、
それが気に入らない父は大きくクラクションを鳴らして
「片付けなアカンで」
と去っていきました。

父との最後の別れでした。
翌日の日曜日に母から訃報が来ました。
病院に駆けつけるとあっけなく心筋梗塞で亡くなっていました。
葬儀場の前の道は二日間、
弔問客で大渋滞ができるほど
各方面の方々から弔問に来ていただきました。

本当にわがままで好きなことをやった父ですが
人から慕われる人格者でした。
ある意味
してやったり」の人生だったかもしれません。

本当に今でも尊敬をしております。

 

2020年04月15日(水)更新

ジェイブリッジ設立

「私はできるかもしれない」
ブリッジ(橋)をかける。
その意味で
2008年に株式会社ジェイブリッジ
を創業いたしました。

「人と共に生きる会社」
それは未来の城東衛生、ジェイ・ポートで
「私の代ではこんな会社にする」
という映画の予告編みたいなものでした。

若者を集めてスタート
楽しい会社になりましたが
あまりの自由さで無法地帯でした

丸投げでもちろん業績は大赤字。
若い従業員は自由をはき違えていましたし
私の理想はあくまでも理想でした
現実は厳しかった・・

ここでの反省は
社員がある一定のレベルに達しない場合は
教育、管理が必要だと感じました。

その頃、​父は2日に一回腎臓透析を始めだしました。
そして42歳で有限会社城東衛生の社長交代をおこないました。

食事会を開き全従業員の前で私はメッセージ
「みんなの会社にします」
と宣言しました。

すると
最後に父がマイクをとり

「まぁ何にも変わらないのでよろしくお願いしますわ」

「・・・」

私の社長になった目標はアドラー心理学を使う経営。
アドラーの基本は「勇気づけ」です。
父は凄い人だったのですが
ある意味「勇気くじき」の天才でした。

多分
バカ息子が理想ばかりのことを言って
従業員が離れる
また従業員が不安になると思って
言ってくれていたのですが・・

ただ私は
「せっかく社長をやるからには」
と肚が決まってましたので
やりたかった事の実践へ移しました。

まずは
「みんなの会社」
ということを公言したので
大家族主義を実践したいと思っていました。

しかし
ある日「社員は家族」と口では言っておきながら、
社員の誕生日を全く知らないことに気づきました。

そのため強面の古参社員にも
喜んでもらうために品がないですが
現金一万円を渡す事を始めました。
「なんやこれ」
という顔をしていましたが現金はさすがに喜んでいました。

なんとか誕生日をお祝いする文化を作れました。
これには真の目標があり
還暦になった創業から今まで一番お世話になった
親戚社員のお祝いを会社ですることでした。

父も参加しました。
バースディケーキのろうそくが消えるまで父は昔話を・・
主役を奪って主役は苦笑い・・

 

2020年04月14日(火)更新

ジェイポートでの大事件

新しい社員たちの奮闘で現場の雰囲気は明るくなりました。
が、ある日その社員のスケジュールボードに

「馬鹿野郎」

最初、誰が書いたのかわからなかったのですが、
よくよく聞くと番頭さんでした。

最初は
「仕事をなめるな!」
新人に怒ってましたが・・

そこで不満が爆発しすぎて矛先が妹に・・

「樋下家ばっかりいい思いしやがって」

と普段温厚で優しい彼からそのような言葉を
吐かれたとは信じられませんでした。

妹が涙ながらに

「そんなことはない。借金だらけや」

と必死で訴えましたが
従業員は私や父には本音を言わないと
いうことがよくわかりました。

この席には私も父もいませんでした。

そして現場社員からは

「営業は遊びだ」

と言う言葉も発せられ、

私が10年現場を離れて
営業している事は

「いつも遊んでいる」

という認識を
従業員にされていたがよくわかりました。

しかし
やっと彼らから本音が聞くことでき、
風通しのいい安全な会社になってきたと
嬉しくなったりもしました。

当時の私の夢は「株式上場」でした。
動機は「かっこいい」ということだけでした。

そしてこのような事件があり
自分の限界を知りました。

その後、友人の弟の社員と
(この社員は工場で寝泊まりもしていましたので)
いつも業務終了後、全社員が帰ると
「どうしたらこの会社もっとよくなるだろう」
と夜な夜な話をしてました。

その時にたまたま夏で窓を開けていると
隣の会社から盆踊りの音楽と笑い声が聞こえ、
その社員と家族が一緒に盆踊りしていたのを見ました。
本当にうらやましく思いました。

「社内で盆踊りをする あれが夢やな」

なんて話をしました。

ただ
「まぁ死ぬまでにできたらいいけど」

とも思っていました。

 

2020年04月13日(月)更新

40にして惑わず

40歳になりまず父任せの採用から
自分も入るようと頼み採用を始めました。

明るい会社にしたい。
そのため明るい人材を採用しました。
が、
残念ながらすぐに既存社員に
いじめられてしまいました。

1人ではダメだと
底抜けに明るい友人の弟を採用しました。

ただ彼は余りにも正直すぎる人格で面接のとき父に
「なぜ弊社に?」
と聞かれて
「私は人と共に生きる会社にしたいです」
と言い、

父から
「まぁ理想もいいけどがんばりなはれ」
と言われ従業員からは
「息子のスパイ」
と3カ月間無視されました。

彼は今までの人生で初めて
自分の明るさが通じなかった。

と後日言ってましたが・・

私は
「彼を守ると既存従業員が敵になる」
と思い中立を貫きました。

すると3ヶ月ほどすると
少しずつ硬いコンクリートの岩盤が破れてきました。

妹も会社にいましたが当時は
お手伝い程度の存在だったかもしれませんでした。
その妹が友人の弟が自分の会社のために
そこまでやっているのを見て目覚めるようになってきました。

当時の現場従業員はお客様と喧嘩をする、
お客様に「お前」「帰れ」「一周回ってこい」

また月給は歩合給でしたので
売り上げが悪い支給日翌日は
挨拶する私を無視・・
ひどい時は睨んでおりました。

そんな社風でした。

当時現場は8名の会社でしたので
「今の人数の倍になれば社風が変わるかも」
と思って営業に力をいれました。

なので、まず採用時に
「お客様の対応」
をしっかりするようお願いしました。

そしてその新人達はベテラン社員たちの空気を
読まずに行動しだしました。

そうすると心ある中堅社員が変わり出しました。
彼は焚火でいうと丸太のような人材で火が付くのは遅いですが、
一旦火するが付くと消えることなく
今も現場長としてやってくれています。

しかし新しいことを進めていくと大きな歪みがまた来ました。
父の事故からずっと働いていただいている
40年勤務の番頭の不満が大爆発しました。

 

2020年04月10日(金)更新

嫌われる勇気

37歳のある日青年会議所の友人に
あるセミナーを紹介してもらいました。
怪しそうなのでしたが
自分の信頼する人の誘いなので通いました。
アドラー心理学をベースにしたセミナーでしたが、
そこで大変な気づきがありました。

それは自分の人生ずっと「被害者」でいたことでした。


「あの人悪い人 私可哀そういな人」

というのが依存的な人のくちぐせ。
ずっと被害者になって父を悪者にしていた他責の自分。

「全て自分が決めてきた」と気づき、
その事で劇的に自分の人生が変わりました。

アドラー心理学の基本は「私はできる」という自己受容と
「周りは仲間」という共同体感覚です。
自分は本当に従業員のことを仲間だとも
思っていないことにも気づかされました。

孤独を感じて独りよがりで罰ゲームと思っていただけの利己的人間でした。
まずは「罰ゲーム」と言うことをやめ新しく生きることを決めました。

そして新たな目標ができました。
アドラー心理学を経営で使う。
アドラー心理学は凄い理論で受講者は医者やセレブ主婦といった方多く
理想的ですが実践的ではありませんでした。

それなら
「自分が社会で実践してみる」
というのが経営者になる目的にもなりました。

今でこそベストセラー書「嫌われる勇気」で
一躍有名になった心理学ですが当時はマイナーでした。
私が心理学を学んでいる自体、
妹はじめ従業員からは大丈夫かと気持ち悪がられたりしました。

しかし「自分はできる」「周りは仲間」という心理目的と
「個人の自立」「社会との調和」という行動目的は
これからの社会で必ずスタンダードになると信じて実践を始めました。

そして妻も一緒に勉強して夫婦で同じ価値観で
生きることのスタートにもなりました。

その頃から毎日曜日は田舎の方へドライブをしながら
妻に会社の話を聞いてもらっていて

今でも続いていて私の一番の勇気づけになっています。

2020年04月02日(木)更新

ジェイポート設立

入社して半年後、工場が完成、
同時に新会社で産業廃棄物を処理する会社、
株式会社ジェイ・ポートの運営を始めました。

ちなみに
J-PORTは私が名付けました。

「J」は喜び(JOY)のJ
と同時に
『城東のJ』から『JAPANのJ』へ
(いっちょまえに野心は強いので・・)

「PORT」は運ぶとか港とかいう意味

喜びを運ぶ
とか
喜びの港

という意味です

創業して一年後
父が脳梗塞になり私が社長に就任。

幸い後遺症もなく2ヶ月で復帰したので会長の父が実質の権限者のまま。
父はお客様の前で「社長やらしてまんねん」と私を紹介、
私も「社長やらされてまんねん」と応酬。

今思えば大人気ない反応でした。

父は私が入った事で肩の荷が降り
「65歳で死ぬ」と言っていたはずでしたが
みるみる元気になっていきました。

が、その分、関係性はもっと悪くなりました。
父は競馬で言うとラストスパート、
私はスタートし始めたばかり。

父は私が入ることで今まで渋られていた
借入金が出来るようになり
工場建設やトラック購入など
新たな投資をどんどんしていきました。

返済しても返済しても
借入金は増えていくばかり。。

父曰く
「茂のためにここまでやっといたらなあかん」

と言う父流の愛情でした。

しかし私は
「私の借金で好きなようなことしやがって」
と思っていました。

会話も少なくなりました。
が、たまに
「茂おるか?」

私が父から呼ばれる時は
銀行の保証人にハンコを押すときのみでした。

また協力会社や銀行の担当者が
打ち合わせに来られても
「会長いますか?」
と、社長の私は素通り・・

知らない間に 新工場の話が進んでおり
決まってから
「こんなんどうや」と・・

「もう無理やで」
というと

「・・・」
父はしょぼんとして
「ぼくも建てるのは最後やし」と・・

かわいそうになってきて
「 わかった ええで」
になってしまいました。

が、自分自身
どんどん勇気がくじかれていきました。

会社概要

昭和29年創業 平成7年法人化

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個人プロフィール

趣味 旅行、サックス、ダイビング

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