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2024年10月26日(土)更新

第13回社内木鶏全国大会にかける思い


2025年の致知出版社主催の第13回社内木鶏全国大会の出場決定通知を頂きました。



「思いは実現する」
社内木鶏会を開始時、絶対無理と思っていたことが現実化でき本当に感謝でしかありません。
ありがとうございます。

全国大会へかける思いを書いてみました。

2010年
5月何気なく大阪で行われていた第一回社内木鶏全国大会を一人で参加した際、出場企業様の動画と発表を見て衝撃を受けました。

それまで木鶏会ができる会社は大企業の事務職、いわゆるホワイトカラーの会社ばかりと思っていたところ、中小企業、ましてや現場社員が参加された皆様の何とも言えない笑顔で木鶏会をされていたのが信じられなかったからです。

その頃の弊社は10名程度の零細の地域企業。父親が社長として強く君臨して社員には
「口動かすなら手を動かせ」
と社内コミュニケーションは意図的に全くゼロにしていました。
組織を木で例えるなら土壌は、コンクリートのようにカチカチ。そこに発芽して幹がたち、枝葉から花が咲く。人が育つと風土は一生かけても考えられないことでした。
しかし2013年頃ある日、致知出版社当時の坂東部長が突然お見えになられ、
「木鶏会をやられたらどうでしょうか」
とお誘い頂きました。

戸惑い不安から「絶対無理です」と一言でお断りをしたのですが、
それでも粘り強く導入を進めていただき、熱意に押され
「別会社の若手社員3名となら一度試しします。」
と父も他界して一年たった事もあり導入を決めました。
4名でやってみると、すぐに場が大きく変化し、違う階で黙々と仕事をしている妹も含めた事務社員との温度差が恐ろしくなり、すぐさま全社で導入を決定いたしました。
全社での1回目の会は土曜日業務終了後8時からスタートし、ベテラン社員も含めほぼ社員参加。懇親会では、普段会社とノータッチの母親が作ってくれたおでんで舌鼓をうち、飲み会おろか、コミュニケーションもない会社で初めて懇親会も社内で行うことが出来、私は社員皆の前で号泣致しました。

しかしその後順調に行くわけでもなく参加したボス社員からは
「宗教やなぁ」と言われ、土曜日の夜8時スタート、任意参加と言う事もあり参加率は極度に下がっていきます。ただ妹や何人かの社員が皆勤、妻も参加してくれ勇気づき、
1回も休むことなく続けて参りました。

2016年新卒社員採用を始めた頃から社風が大きく変わり、任意参加にも関わらず参加率80パーセントを超えだし、2年前に100回を迎えることができ、現在では全社員が出席してくれています。
昨年からはパートさん約10名も含めたと昼木鶏会を始めました。それは
「偉人のお母さんは皆素晴らしく日本再生の肝はお母さんにある」
と徳望塾で致知出版社藤尾社長から聞いたからです。
私はその話に感銘を受け、やはり今の日本を立て直すにはお母さんがまず勉強しないといけないと思い、そのためわずか10名足らずの弊社お母さんパート社員さんですが、始めたところすごく良い感想文を書かれ、やはりお母さんは日々真剣に生きていると実感し、子育てで真剣に生きているからこそ致知がすっと入ってくるんだと改めて感じました。

また現代社会課題の一つが環境問題であり、環境問題は人が引き起こしているのが原点です。
その中心にいる我々産業廃棄物処理業界にかかわる人間教育も不可欠になっていると思います。
これからも一燈照隅の精神で日本の未来のため小さい事でも何かできる事をやっていきます。


社長には創業者と事業継承者の2通りしかなく
全国大会出場を通じて私みたいに勇気がくじけている全国の事業継承者様の
勇気づけになれればとも考えています。
そして最後この機会を頂きました
致知出版社の方々、大阪経営者会の役員の方々
そしてこれまで社業を繋いで頂いた先代社長、歴代社員に感謝申し上げます。
ありがとうございました。





 
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2024年10月08日(火)更新

創業の原点

創業70周年の節目迎えて
致知10月号の
「創業の原点」というコラムにださせていただきました

内容を少し変えて
少しブログに書かせていただきます。

弊社の前身である城東衛生が大阪市許可業者として事業を開始したのは、
1954年で、遡ることちょうど70年前です。
創業者である祖父樋下嘉一郎が大阪市城東区で始めた一般廃棄物の収集。
平たく言えば「ゴミ屋」
その後父に引き継がれ2000年から私がジェイポートの社長として会社の舵取りを担うようになりました。

父は私の幼い頃から体が不自由でした。
50年以上前一般廃棄物をトラックで運搬中に追突事故を起こし、
一命は取りとめたものの、左足に大怪我を負い、車が運転できない体となったのです。
他に社員はいなかったためにアルバイトに来ていた男性を急遽ドライバーとして採用
何とか事業を継続したと言う経緯がそこにありました。

幼少期、私は周囲から「ゴミ屋の息子」と見られることにコンプレックスを感じていました。
小学校の作文では運送屋と書くこともありましたが、一方では父親は
「茂、商売と言うものはええもんや。頑張れば頑張るだけお客様から応援いただける」
と笑顔で語るのが常でした。
仕事の前線に出られなくとも決して仕事に誇りを失わない父の姿と接するうちに、
いつしかコンプレックスも消え、きつい仕事を積極的に手伝うようになっていました。
とは言え、高校大学と進むにつれて、反発心が芽生えてきたことも事実です。
大学を出ても稼入ることを避け、アルバイトをしたり、外資系の銀行で働いたり
オーストラリアでホテルのマネージャーをしたりと
自分がやりたいことをばかりやっていました。
そして30歳の時、働いていたオーストラリアのホテルに父から一本の電話が入りました。

私が事業を継続することを条件に、銀行から融資を受けたいと言うのです。
この電話がきっかけとなり、家業に入ることとなりました。
そこには大学まで出て自由気ままに生きていたことの贖罪の気持ちも少なからずありました。
そして私の「罰ゲーム」が始まりました。

入社当時の従業員は5名で荒くれ者ばかりでした。
「俺はお前に雇われてんのとちゃうで。おやっさんに雇われているんや」
と釘を刺されたの覚えています。
「茂君、宝くじ買ってきて」とパシリに使われることも。。

挨拶も会話もなく、社内は殺伐とした雰囲気でした。
ただ唯一の救いは従業員たちが朝早くから夜遅くまで働いていたことです。
どこにも行き場のないなかったところ雇ってくれた社長の父に報いたいと言う思いがあったのでしょう。
父もまた体が不自由な自分に代わって働く従業員を大事にし、精一杯の愛情注いでいました。
私は父の鞄持ちだけでなく、従業員たちと共に現場で水を流して働きました。
彼らに認めてもらわないことには自分の未来はないと思ったからです。
また得意の営業力を発揮して次第にお得意様も増えていきました。
しかしそれで従業員との溝が埋まり社風が改善されたわけではありません。

しかし「罰ゲーム」なので不憫は感じませんでした。

父の持病が悪化し、2000年33歳の時に社長を継いだものの、
父を抜きにしては会社が回っていかない状態は相変わらずでした。
いつも通り殺伐とした社内で1日の業務を終えたある日、
窓から外の窓から隣の会社様が賑やかにお祭りをしている姿を様子を目にて思いました。

「いつか社員みんなで賑やかに盆踊りができる会社にしたい。」

たわいもないことですが、
これはその頃の私の一生をかけた切なる願いだったのです。

人生や仕事に悩んだ私はそのヒントを、古典などの読書、セミナーに求めるようになりました。
そして出会ったの学びの1つがアドラー心理学です。
セミナー受けて衝撃だったのは、
「自分は惨めでかわいそうな人間」
と被害者意識を持って持ち続けて生きていたことでした。
目の前の現実を建設的なものにするか、非建設的なものにするかは私の選択であり、
誰の責任でもありません。

今起こっている現実は
「すべて自分が決めたこと」

自らの主体性を確立させた上で目標を共有し、仲間と協調し合う
「自立と調和」の精神こそが
自身にもわが社にも必要だと気づいたのです。
今私が趣味でやっているジャズビッグバンドのように一人ひとり楽器や譜面が違うのに
曲としてかっこよく奏でている。
こんな組織をつくりたいと思いました。
そして私はこの考えに共感してくれる仲間を増やしたいと考えました。
しかしよき人材を採用するには売り上げを上げなければなりません。
幸い努力が実り気持ちが通じ合う一人二人と仲間が入ってくれました。

2010年、父が他界しましたこの年に目標としていた3億の売り上げを突破。
3年後「致知」をテキストとした社内木鶏会を導入したことから業績は成長軌道に乗り始めました。
当時まだまだ古参社員の反発反発が強く、入社以来で私を支えてくれた妹も懐疑的で
社内木鶏会を導入できる雰囲気ではなかったものの、
子会社の数人で始めた社内木鶏会はコツコツと継続したことで
社内風土が大きく変わりました。 

会社組織を木で例えると
木鶏会は土壌改良の役割でコンクリートのようなカチカチの
地面が大きく耕され、柔らかい土になったという感じです。

また2015年此花工場の落成に合わせ念願だったお祭りを100名以上で実現できました。
その時の感激は今でも忘れることができません。

同年以降は初の経営計画発表会や環境整備、大卒採用にも取り組み、業績は急伸できました。
弊社の原点に思いを馳せる時、思い浮かべるのは父が従業員に注いでいた愛の深さです。
天荒な父でしたが反面、とても人には慕われ優しい一面がありました。
信頼と言う言葉を好んで使い、信頼は求めるものではなく、
「まず自分から信頼することや」と
何気ない一言はそんな父の人柄を表しています。

私達の業、廃棄物処理業の業界は不法投棄、大気汚染といったネガティブなイメージが先行しがちです。
一方それは取り組むべき社会的責務の大きさを物語っています。
最近では海洋プラスチック、地球温暖化など
環境問題が大きくクローズアップされていて
廃棄物処理業は切っても切れない業界になっています。
またエネルギー問題が戦争につながります。 

弊社でもその社会課題の解決の一環として
此花工場を拠点にお客様が排出された混合廃棄物を機械選別し、
廃プラスチックを取り出し代替石炭として燃料化を始めています。

地球温暖化など環境問題やエネルギー問題が少しは解決し
世の中を良い方向に変えれるという願いで
社会全体から見れば小さな取り組みかもしれませんが、
それがひいては世界の平和につながると信じて70周年の節目を迎えて
さらに前進を続けていく覚悟です。


 

会社概要

昭和29年創業 平成7年法人化

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個人プロフィール

趣味 旅行、サックス、ダイビング

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